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2014年8月

2014年8月26日 (火)

がん研究10カ年戦略に注目

 この夏、父が大腸癌によって逝ったが、僕のまわりでも癌と
闘っている友人や知人が増えている。54歳という自分の年齢の
こともあるだろうが、罹患そのものが増えているというよりも、
癌との闘病が日常生活の中でも普通に交わされる話題となって
きたということだと思う。
そんな中で、さまざまなところで癌治療のための免疫細胞療法
について努力されている方々と接する機会が増えた。
免疫細胞療法?、当初は標準治療ではないこの治療法について、
少々怪しげなものを感じたりもしたのだが、徐々にその可能性
について深く興味を抱くようになった。
 我が国の癌対策だが、1981年に日本人の死因のトップに癌が
躍り出て以来、対策研究に本格的に取り組みだし、1984年「対
がん10カ年総合戦略」を第1期の癌研究10カ年戦略として策定
した。その後、「がん克服新10カ年戦略」、「第三次対がん10
カ年総合戦略」が策定され30年が経過しようとしているが、未
だ死因のトップは癌であり続けている。残念ながら十分な成果
は未だ得られているとは言えない。
そして今年4月、文科・厚労・経産による「がん対策推進基本
計画」が閣議決定されそれに基づく、第4期にあたる「がん研
究10カ年戦略」が今年度より開始したところだ。
 4期の戦略テーマは「根治・予防・共生」。
その中でも、根治を目指した研究事項にこの免疫細胞療法に関
わる事項が盛り込まれている。それが、「アンメットメディカ
ルニーズに応える新規薬剤開発」と「新たな標準治療を創るた
めの研究」だ。役所用語でわかりにくい文言だが、平たく言え
ば「治療法が十分に確立されていない病気の新薬開発」と「手
術療法、化学療法、放射線療法に加えて新たな治療法を創る」
ということ。これが、研究事項に盛り込まれたことによって、
「免疫療法及び遺伝子治療等の治療開発を強力に推進」が謳わ
れた。
 まず、新たな10カ年戦略にある「免疫療法」とは、体内にあ
る免疫細胞や抗体等を活性化させもともと備わっている免疫機
能を高めて癌の増殖を抑制する治療法である(国立がん研究セ
ンターがん情報サービスより)。
大きくは、免疫細胞療法、がんペプチドワクチン療法、サイト
カイン療法、抗体療法の4つに分けられる。サイトカイン療法
などはインターフェロンなどでおなじみだが、その他はおそら
く耳にされることも少ない。いわゆる薬事承認などを得て科学
的根拠が示されているとされる標準治療法ではないからだ。
癌免疫療法の中の免疫細胞療法について、標準治療として確立
していくことのみならず、標準治療との組み合わせも考えてい
くべきではないかということが一つの方向として考えられる。
過去30年間、「対策」の効果を明らかにすることができなかっ
た癌治療について、これからの10年でどのように新たに結果を
示すことができるか。まさに正念場の10カ年戦略となるが、政
治の側からも支援をしていきたいと考えている。

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2014年8月15日 (金)

敗戦の日に父を想う

 戦後69回目を迎える敗戦の日。
いくぶん、夏の盛りを過ぎたと感じさせる風が吹くものの、猛
暑日に達する勢いの暑さ。
奈良県護国神社拝殿にて、奈良県出身者戦没者追悼式に朝より
参列する。今年は、母の初盆と父の供養もあり、武道館の全国
戦没者追悼式ではなく地元にて哀悼の誠を捧げる。
 今年の夏は、母の初盆もあり、また父の葬儀も6日に終えた
ばかりゆえ、法要・供養が我が家でも相次いだ。
とりわけ、初盆を執り行うのは長男として初めてのこと。
祭壇を飾り、供養の様式を整え、導師様に法要を執り行ってい
ただくのも初めてだ。
 嫁いだ娘や、東京で仕事や大学に行っている子どもたちや親
せきも集って法要を済ませると、なにやらホッとした気持ちに
なった。言われるように、この俗界空間に戻ってきてくれてい
るような、そんな気持ちになる。
迎え火を焚き、お盆が始まる。
そして、送り火を焚いて、先祖そして母を見送る。
いずれ、子どもたちにも伝えていかなければならないが、なん
せ自身がまだまだ新米ゆえ、段取りも悪いことこの上ないけれ
ど、父も母もそんな自分を許してくれていることだろう。
 毎年迎える、敗戦の日。
軍人として生きる志を持って生きた父とは、ついぞ、詳細な戦
争の話をすることはなかった。
何度も、訊ねようとしてみたが、聞けなかった。
それは、彼が自らの志としての道を敗戦によって失い、そのこ
とをずっと抱えて生きてきたのを子ども心に感じていたからだ
と思う。父の口から戦争を語らせようとすることが、父の傷口
をえぐるようなことに思えてならなかったのだ。
 喪主として葬儀の時に語ったご挨拶について、多くの方から
言葉をいただいた。
少し長くなって恐縮だが、父の供養と思って改めて以下に全文
を記す。
平成26年8月6日午後1時
故馬淵俊造葬儀告別式喪主挨拶
 本日は、大変お忙しい中、また夏真の酷暑の中、父俊造の葬
儀告別式に、地元地域はじめ遠方から、また各界から、多くの
皆様方にご参列賜り心から感謝申し上げます。
馬淵家を代表いたしまして、一言、ご挨拶申し上げます。
 父俊造は、去る8月3日午後5時10分、享年87歳にて永眠いた
しました。週末ということで地元に戻っていた私がちょうど病
室に居合わせたその時に、まるで眠るように静かに息を引き取
りました。2月7日に、自らも病床に臥しながら母を見送った父
でしたが、177日目で、母の後を追うように天へと昇って逝き
ました。同じ年に、半年の間に、両親を見送ることになりまし
たが、「仲の良い夫婦の証ですよ」と菩提寺西方寺ご住職・櫻
井導師に仰っていただき、私たち家族は穏やかなあたたかい気
持ちで父を見送ることができます。
 父は母と同じ昭和3年生まれ。3月6日に静岡県浜松市で馬淵
恒蔵・佐輿の三男として生まれました。年の離れた兄弟の中で
末っ子として自由奔放に育ったと親戚から聞いております。
 父は、父の祖父にあたる金吾を敬愛しておりました。馬淵金
吾は遠州において自由民権運動家として明治14年に憲法制定・
国会開設の建白書に名を連ね、また第28国立銀行創立、浜松紡
績、帝国製帽設立などの公的な仕事に従事しておりました。父
は祖父金吾への想いもあってか自らも幼少期から公人としての
道を志すようになりました。そして、太平洋戦争開戦後、戦火
が広がる中、陸軍士官学校に進み、軍人として国家に奉ずる道
を歩みだしました。
 やがて戦況悪化の中、陸軍士官学校第61期生として第22中隊
第2区隊に所属し、市ヶ谷から朝霞さらに秩父へと移動後、敗
戦を迎えました。
 「君たちは、何があっても生きろ!」との中隊長の訓示を聞
き終え、上官たちが自決の道を選択し兵舎に消えるのを最敬礼
で見送り、その後銃声を耳にするまで微動だにしなかったと聞
きました。父の、軍人として生きる志は、その瞬間に潰えまし
た。
 戦後は、母と出会い、「もう戦後じゃない」と言われた時代
をサラリーマンとして生き、奈良に住まいを移し、私たち二人
の兄弟の父として高度経済成長期を生きぬきました。本人とし
ては軍人として生きる自らの目標を失い、ひたすら日々のこと
に追われる毎日だったのではないかと思いますが、家族仲睦ま
じくささやかな喜びを大切にして暮らすことも人生だと受け止
めていたのではないかと思います。
明るい母と、穏やかな父、の家庭でした。
 一方、長男の私には、厳しい一面を見せる父でもありました。
軍人、武人としての誇りで生きていた人だからだと思います。
「渇しても盗泉の水を飲まず。熱しても悪木の陰に憩わず。」
これは、「どんなに喉が渇いても盗んだ泉とされる水は飲まな
い。どんなに暑くとも悪い木とされる木の陰には休まない。」
との意味です。
中国の武将・陸機による漢詩「猛虎行」の一節は、公に奉ずる
者の高い倫理観を示す言葉であり、そんな重い厳しい言葉を、
幼い私に父は説いていました。当時は、私もよく理解できずに
いましたが、今思えば馬淵家に脈々と生きる「公に奉ずる魂」
を父から授けられていたのだと思います。
 晩年は、ここ奈良富雄で、一つ屋根の下に母法子、私たち夫
婦、6人の孫、家内の両親の12人で暮らす日々の営みをとても
大切にしてくれました。私が選挙に挑戦し敗れ、再び挑もうと
する厳しい日々も、アルツハイマー病を患った母の介護や孫の
幼稚園の送り迎えなどを一生懸命にしてくれました。議員になっ
て普段は家にいない私に代わって、家族の中心に居てくれまし
た。時には父親代わりに孫たちにも厳しく叱ることもあったよ
うです。子どもたちは子どもたちで、食卓でのおじいちゃんの
一切空気を読めない発言をいつも笑って聞き、喜んでくれてい
ました。時には、私やヒロコから叱られた子どもたちをこっそ
り自分の部屋に招き入れ、孫の為に押し入れにしまっていたハ
イチュウを出して慰めたりもしてくれました。母と共に孫たち
から愛され、ご近所の皆さんにもあたたかく接していただきま
した。
 末期の大腸がんがわかったのは今年の1月でした。父に残さ
れた時間は少ないと思っていましたが、「ばあさん置いて、先
に逝くわけにはいかない」との言葉通り、母を見送ることがで
きました。手術後は、「ばあさんが早く来いと言ってる」と笑っ
て、静かにその時を待ち続ける日々でした。
 最期の時を迎えようとしていた父にこの間、私は病室で悩み
ながら、あることを訊ねようとしていました。
 「お父さん、僕が子どもの時から、いつも、お父さんは澄夫
はダメだ、とお母さんに言っていましたね。今はどうですか?、
まだまだダメですか?僕は、まだまだダメですか?」と。
 愚かなことです。そんなことを今更聞いても仕方ないのに。
 結局何も、聞けませんでした。ただただ、父の顔を見るのが
精いっぱいでした。そんなことを聞きたがっている50を過ぎた
息子を、父は「やはりまだまだだな」と天で笑っているかもし
れません。8月3日心肺が止まった瞬間、悲しみよりも感謝の想
いでいっぱいになりました。
 お父さん、ありがとう。僕たち兄弟を育ててくれてありがと
う。これまで家族を守ってくれた感謝の言葉しかありませんで
した。
 母の初盆供養を間もなく迎えます。天に上る父と待っていて
くれた母、きっと仲良く二人していることでしょう。そして父
母による、子・孫・曾孫の三世代13人の子孫を含む家族ともど
も、明るく、元気に暮らしてまいります。どうか、これからも、
皆さまからのご指導ご鞭撻賜りますようお願い申し上げます。
 本日は父俊造の為に、ご会葬いただき誠にありがとうござい
ました。
以上
 今週いっぱいは奈良にいることができる。
父の遺品を整理しながら、自分なりに敗戦後の69年間に父の想
いを重ねて見ながら考えてみようと思う。

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